「セル」感想。パッとしないキングの原作を映画化したらつまらなかった。ジョン・キューザック主演の駄作。

スティーブン・キング原作を映画化した「セル」は、いってみればゾンビ映画の亜種である。

唐突に発生し、よくわからないうちに進んでいくお話。

で、とくに亜種の場合、観客への気配りとしてこれはゾンビものですよ、っていう説明が必要な気がする。

いまでも、一応物語の冒頭ではゾンビの発生理由とか、現在の状況にいたった経緯がなんとなくわかるような描写が入る事が多い。「ドーン・オブ・ザ・デッド」でも「28日後…」でもそういう作りになってるし、むかし「ゾンビ」が民放で初放映された際には、惑星からの怪光線でゾンビが発生したことを説明する、オリジナルにはないシークエンスを冒頭に付け足して放送されたという。これもいきなりゾンビが登場して視聴者が困惑するのを避けるための判断だったと思う。

ゾンビが一般化した現在では、とくに理由なくゾンビが登場しても「あ、ゾンビね」と観客に受け入れてもらえるような気もするけど、亜流の場合はやっぱりそれなりの理由が必要なんじゃないか。ゾンビの場合、ブードゥー教のゾンビであったり、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」から続く著名なゾンビものの下地ができているのでゾンビという存在を抵抗なく受け入れやすいけれど、「28日後…」のようなウィルス感染などの不純なゾンビだと、どうしてもなぜゾンビ化したのか、対策はあるのかといった説明があったほうが見ていて納得感があるし、またそれが物語の推進装置としても作用すると思うし。

で、「セル」はそういうのがない。携帯電話を使っていた人が突然口から泡を吹いて凶暴化するんだけど、なぜそうなったのかの説明がない。

携帯を使うと凶暴化、というギミックはSFっぽくもあって、観客もそのへんの仕組みに興味を抱くと思うんだけど、キングにとってはそれはどうでもいいことのようで、この映画ではそのへんはとくに説明されない。ゾンビとは違い、組織化され目的を持って行動しているようなフォナー(この映画でのゾンビ化した人の呼び名)についても、目的とか一切説明されません。

勝手知ったるテクノロジーが凶暴化の原因なら、それを食い止めたりする方向に物語が進むのかなという期待が湧くのも自然なことだと思うが、キングの中ではそういうのはどうでもいいみたいで、物語は違った方向に進んでいく。(なお脚本にはキングも参加してます)

そしてさらに困ったことに、物語の進み方も大雑把とで、何がどうなっているのかよくわかっていない観客を置いてけぼりで進行していってしまう。

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駄目な点1:冒頭の空港シーン

まず第一に、空港でのフォナー(この映画でのゾンビの呼び名)大発生。ここは日常空間に一気呵成に罵声と暴力をぶちまけるべく気合をいれて構成された箇所だと思うんですが。しかし、なんとなく全体的にとっちらかった印象を受けます。唐突な発生、というのはまあいいんですが、携帯を耳に当てておかしくなる人たちがどうも散発的に描写されている感じで、全体としてのスケール感があまり感じられない。最後に空港に旅客機が突っ込んできて大爆発、それが最初の混乱のクライマックスになるんですが、この爆発もちらっと映るだけでなんか尻すぼみです。

駄目な点2:フォナー(ゾンビ)

フォナー自体も微妙。携帯を使った人が突如発狂する。突然口から泡を吹いて倒れたり、ぎくしゃく動いたり、突然笑いだしたり泣き出したり「気が触れた」状態になるんですが、フォナーとしての行動パターンに幅がありすぎて、どうも一生懸命おかしな演技をしている、というふうに見えちゃって怖さよりも滑稽を感じてしまう。ゾンビだったら、ゾンビらしい動きというのが出来上がっているのでそういうことはあんまりないんですけどね…。

フォナーが統率のとれた行動をしているところも、みんなで集まってぐるぐる走っていたりして、なにか怖さではない場違い感を感じてしまう。

駄目な点3:適当な(端折り過ぎな)展開

トム(サミュエル・L・ジャクソン)と出会って無事空港~地下鉄を脱出したクレイ(ジョン・キューザック)はとりあえず自宅に戻る。クレイはトム、途中で出会った同じアパートに住むアリスと一緒に、息子の安否を確かめるため別れた奥さんの家に向かうことにする。

この辺の流れもちょっと唐突でもうちょっと現在の状況について説明がほしいところ。テレビを付けてこの事態がどこまで広がっているか確認するとか、政府の指示を確認するとか、そういうのが一切ない。

次のフォナーとの遭遇も結構てきとう。一人のフォナーを発見したら周りにたくさんいて、追いかけられるという、いわゆるゾンビものでよく見るシーン。フォナーたちと主人公たちの距離感も適当で(なんで捕まらないんだろう)、立ち止まって銃で撃ちまくると不思議なほどよく当たったりするところも含めて、アクションシーンとかのリアリティみたいなものには特に気を使っていないみたい。

後半、どっかのバーでまともな生存者と出会う場面。トムが自分語りを始めるんだけど、前後がつながっていない感がある。

連続性のあるお話の中で、部分部分をピックアップしてお見せしてます、という雰囲気がある。

駄目な点4:校長先生雑に死にすぎ

ガイテンという寄宿生の私立学校にたどり着き、生き残ってた校長先生とたったひとりの生徒ジョーダンに合流する。学校のグラウンドで夜になると大量のフォナーが集まって寝ている。校長先生は、グランド用の散水車でガソリンを撒いて一気に焼き殺そうと提案。

その提案が異常なのは、ステイシー・キーチ演じる校長のキャラでなんとなく、まいっか、と了承されるんだけど、その後が雑。首尾よく火をつけてフォナーたちを丸焼きにしたと思ったら、ガソリンが引火して散水車が大爆発。校長死亡。

散水車でガソリン撒いて火をつけるんだからもっと注意してなくちゃ駄目でしょ。あと校長。いいキャラだったのでもうちょっと長生きしてほしかった。散水車の破片が校長にだけ突き刺さって死亡っていうのもちょっとご都合主義?すぎるんだけど、校長の死に反応するのが生徒だけであとの三人はほぼ無視っていうのもなにかおかしい。

ちなみに原作では校長先生はフォナーの親玉に命じられて、万年筆を目に突き刺して自殺させられる。フォナーの行動に統制がみられるとか、フォナーたちを率いるボスらしき存在については少しは触れられるもののただ出てくるだけで、それがなんなのか、ほぼ説明はない。

駄目な点5:フォナーが意味不明

寄宿舎でのおしゃべりのなかで、グランドで集団で集まっているフォナーたちは、寝ている間に再起動しているのではないか、というジョーダンの考えが紹介されるんだけど、フォナーについての考察はそれ以上発展せずにほんとにただのおしゃべりで終わる。

このへんは小説ではもう少し説明があって、フォナーの行動原理みたいなものについてももう少し紙面を割いて描写されている。どっちにしても十分に理解できるものではないんだけど、映画だとフォナーに対して、だから結局何なの?という疑問が消えないまま物語がすすんでいくのでどうも居心地が悪い。

駄目な点6:CGとか

手持ちカメラ風の撮影が随所で行われているけど、臨場感があるわけでもなくとくに効果的には思えない。

かなり悲惨なのはCG。CGの出来はビデオスルー映画に匹敵するくらいの酷さで、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・キューザックというキャストからするとずいぶん安っぽい。制作から公開までやけに時間がかかったが、それはポスプロに力を入れているからではなく、微妙すぎて公開のタイミングがつかめなかったからのようだ。

駄目な点7:公開がおそすぎる

原作は2006年の出版。映画は当初イーライ・ロス監督で2009年公開予定だったのが監督が変わったり遅れに遅れて2016年の公開になった。その時点で、原作のテーマが時代遅れになっていたと思う。

原作出版当時には携帯依存症とかテクノロジーへの警鐘・皮肉という見方も成立したかもしれないが、2016年公開の映画で、それをネットフリックスでみて感想もネットで書いているような時代にそれはありえない。幸い映画ではテクノロジー批判といった面はない。携帯は最初のゾンビ化のきっかけに過ぎず、その後は人間が直接他の人をゾンビ化できるようになる。じゃ、「セル」っていうタイトルはなんなの?ってことにもなるんだけど。そのへんは終盤でかろうじて意味をもたせている、という感じ。

まとめ

原作の要素をいくつか取り入れて、ニュアンスは感じられる映画に仕上げようと努めたようなのはわかる。しかし、原作自体キングの中では評判の悪いもので、どうやってもクソにしかならなかったのかもしれない。スマホの爆発的普及などによって陳腐化した面があるのも否めない。キングによるゾンビもの、終末ものという期待を裏切ってなんかこじんまりとまとまってしまい、「ザ・スタンド」に成り損ねた小品といった印象。

原作は改めて読むとそんなにクソでもないけど、一読してすぐ内容を忘れてしまってもおかしくない程度に印象が薄い。映画は結末を原作と大幅に変えている。映画版ミスト的なものを狙ったのかもしれないけど、大方の観客にとってはなんだかよくわからない、つまらなかった、という感想しか浮かばない映画になってしまっている。

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