鬼教師vsど根性生徒の映画、「セッション」の感想。少しフルメタル・ジャケットみたいでした。

少し前に話題になった「セッション」という映画を観た。アメリカの音楽学校での、鬼教師とその生徒の話。

これは、スタンリー・キューブリックの戦争映画「フルメタル・ジャケット」の前半を音楽を題材に置き換えたものに思えた。有名なこの映画の前半部分ではベトナム戦争にかり出された若者たちが新兵教育を受ける様子が描かれ、教育担当のハートマン軍曹の厳しい指導の様子が語りぐさになっている。いまさら説明するまでもないくらい有名だけれど。戦争という非日常事態に対応させ、人を殺すという普通であれば許容できない行為を行わせるため、軍曹は言葉による人格の否定と厳しい規律でいったん新兵のそれまでの境遇や経歴を消し去り(名前まででなくなり、あだ名で呼ばれる)、新しく兵士としての体、頭脳に仕立て上げていく。

これは教育ということの本質なので、どこの軍隊でも、あるいはどういった組織でも程度の差はあれ同じことが行われているに違いない。しかしとりわけ軍隊では徹底的に行われるはず。兵隊が、戦場で「戦争反対」とか言って戦闘を拒否したり、恐くて引き金が引けないなんてことになったら大変だから。

そしてこの軍隊での教育にフォーカスして描いたのが「フルメタル・ジャケット」で、最初に字幕を手がけた戸田那津子の翻訳が「ぬるすぎる」ということで別の人(原田眞人だったかな)に差し替えられたくらい、罵詈雑言が乱舞する映画だった。その後、こういう軍隊とかでの厳しい訓練風景が出てくる映画はちょこちょこあったけれど(「G.I.ジェーン」「ザ・ダイバー」「センパーファイ」「海猿」とか)、やはり「フルメタル・ジャケット」のインパクトを超えるものはないと思う。でも、なんでこういう厳しい教育を受ける映画に一定の人気があるんだろう・・・それは、見ている側もまるで教育を受けた気分になって、向上したような気分、あるいは向上しようという気分になるからでしょうね。子供たちに送られてくる進研ゼミの勧誘マンガと同じ。

それはともかく、この激しい指導の部隊を音楽学校のジャズクラスに置き換えたのがセッションで、それは成功している。厳しい訓練は音楽業界とも親和性があるようで、セッションの監督は自分が音楽をやっていたの体験を元にこの映画を作ったといっているそうです。

主人公アンドリューは名門の音楽学校に入学した新入生。そこで教師フレッチャーに才能を見込まれ、彼の指導するジャズのクラスで学ぶことになる。そして厳しい指導に耐えてクラスの第一ドラマーとなるが、コンクール当日にアクシデントに遭い大失敗。失望と怒りとでフレッチャーに殴りかかりそのまま学校を中退する。その後、かれはたまたま町でフレッチャーと再会し、かれもまた学校を首になっていたことを知る。別れ際、自分が指揮をするライブが間近にあるが、いいドラマーがいなくて困っていると誘われたアンドリューは、ドラマーとしてライブに参加することを決意する。

と言うあらすじで、この映画には、人と人とのつながりを感じさせるような感動は、ないと思う。軍隊ものなどでは、厳しい訓練を乗り越えた先に人間的な成長や仲間同士の団結や友情なんかが描かれるけれど、セッションではそういうのはない。

セッションの鬼教師は、はっきりいって人格破綻者で、きちがいだと思う。かれの厳しい指導について行ければ上達はするのかも知れないが、過去にも生徒を一人追い詰めており、やがてその生徒は自殺する。アンドリューと再開した際の会話で、自分のいびりにも近い指導についてフレッチャーは、チャーリー・パーカーが失敗したときに「お前はよくやった」とおだてられていたら、彼は名プレイヤーになれたか?といって肯定する。(蛇足だがわたしの考えでは、たしかに甘やかしていては上達はしないが、いびりと指導はは違う。本当に名手になる人なら、周りが甘やかそうと自ら失敗に気付いて努力するだろう。なので、無駄ないびりは反対。)

主人公のアンドリュー君も結構おかしいと思う。音楽に対する執着、また自分の才能に対する自惚れ。それは若者であれば当然のものだけれど、可愛い彼女を音楽のほうが大事だからって無碍にふったり、挙げ句の果てにはコンクール当日、運転していたレンタカーが事故ってひっくり返り、自分も血まみれになっているのにそれでも会場に向かってそのままの姿で演奏しようとするのは、正直引く。しかし、ほんとうに音楽一筋であるというのはよく分かる。

そしてラスト、この両者が激突する。「フルメタル・ジャケット」では、他の生徒が立派な兵士になっていく中、「微笑みデブ」だけはなかなかドーナツの盗み食いを止められず、教官の指導の中心的対象となっていった。やがて微笑みデブも意外な才能を発揮し、非凡なスナイパーとして立派に卒業していくかに見えた。しかし、微笑みデブは実は厳しい指導の中でも最後まで自己を保ち、自己を侵害する敵、すなわち教官の排除を計画していた・・・。教官はトイレで微笑みデブに撃ち殺されてしまう。

セッションでは、町での再開でアンドリューは先生の指導を理解し、感謝し、そして先生の誘いに乗りジャズのライブに参加することにする。曲目も学校でさんざん練習したやつだし、先生とも和解できたし、鼻歌うたいながらふった彼女に電話したりして、彼氏がいるとかいわれて落ち込んだりして、とにかくライブ会場に向かう。そしてドラムセットを前にし、演奏が始まり、愕然とする。

セッションでは感動はないと書いたが、感動ではなく興奮があると思う。前半の緊張感のある教育風景から退学後に少しトーンを落ち着かせて、最後にもう一度一気に盛り上げてくる。意外な裏切りがあり、さらにそれをひっくり返す展開があり、一連の流れがパワフルに進行する。鬼教師は自分が首になったことやその原因(と思いこんでいる)アンドリューへの復讐のことを忘れ、アンドリューは鬼教師への怒りや元カノに本当に彼氏がいるのかどうか、家族の自分に対する理解のなさといったことを忘れる。それこそが音楽の力で、激突した二人は意図がどうであれ結局はただ音楽という一点でぶつかりあう。これがタイトルの「セッション」の意味なんだな、というのがよく分かりました。なかなかいい邦題だと思います。

最後はさっぱりと終わる。音楽にまつわる映画で、最後に求めていた音楽に到達して終わる。蛇足のないラストで正しいと思います。

というわけで、ずいぶん評判のいい映画だったのでおそるおそる見たのですが期待に違わぬ引き込まれる映画でした。主人公のアンドリュー君は知らない人でした。鬼教師フレッチャーのJ・K・シモンズはこの映画で沢山の賞を受賞したそうで、サム・ライミのスパイダーマンで新聞社の社長をやってる人でした。

  • セッション
  • (Whiplash)
  • 監督: デミアン・チャゼル
  • 2004年
  • 上映時間 106分

 

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