「複製された男」の感想。原題は「敵」。敵って誰だ?

一種の寓話的物語で、現実世界をそのまま反映した物語ではない(と思う)。暗喩的表現を多用している(と思う)ので漫然と表面だけ追いかけているとラストシーンでびっくりして、そのまま映画が終わってしまうので狐につままれたようになってしまうかも。

そこで、冒頭に戻って見直してみると、最初に「混沌とはまだ法則が明かされていない秩序である」というようなエピグラフが。つまり、一見すると自分のそっくりさんが存在して自分と入れ替わった挙げ句死んでしまうというめちゃくちゃな物語にも、きちんと意味があるんですよ、というメッセージなのです。実際、この映画はデタラメにつくったわけではないし、考えて見る楽しみが十分得られるようになっています。

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分かりづらいけれど支離滅裂ではない

思い出したのは韓国映画の「カル」。「セブン」みたいな猟奇殺人事件を題材にした映画で、残虐な殺害方法やミステリアスな雰囲気で観客を幻惑したものの、はたしてあの映画に納得のいく筋道がつけられたかというと、かなり疑問。あの映画はその「謎っぽさ」を生み出すためにあえて映し出される出来事をめちゃくちゃにし、映画だけでは殺人事件の全貌が構成されないようになっている。

それはそれで、雰囲気作りのためにはなっているとおもうけど、そうするとあの映画で真相はなんだったのか、とか追求することは虚しい悪あがきに過ぎないということにもなる。そもそも、たどり着ける真相なんて無いんだとしたら。

「複製された男」も確実にこうだと言える結論とか解釈はなく、様々に解釈ができる多義性のある作りになっている。しかしこちらは「カル」とは違い、物語はデタラメではなく、ただその意味がいちいちわかりやすく説明されないだけで一貫したものになっている。

そういう意味で、分かりづらさはあるにして「カル」みたいななんちゃってミステリーと「複製された男」は別物の映画で、個人的には「複製された男」のほうが好き。

映画の原題は「敵」。なぜ、邦題は「複製された男」なのか。

邦題は「複製された男」。これは原作と同じ題にしてあるようだけど、映画版のタイトルはAn Enemyで原作とは変えてある。敵、といわれて見ると、二人の主人公の対立関係が際立って見えてくるし、二人の関係性を超えたところにいる敵にも意識が回る。複製された男というタイトルだと、なんかSFみたいだし二人の主人公の真偽などが気になってくるようで、観客の焦点が映画からずれてしまうような気がする。原作は読んでないので内容はわからないけど、ここは邦題も変えたほうが良かったのでは。

映像の質感、雰囲気が謎めいた物語によく合ってると思います。

映像はすごくドゥニ・ヴィルヌーヴっぽい。原作を書いたのはポルトガルの作家だけど、撮影はカナダのトロント。しかし、トロントっぽさがなく、まるで異国の地で撮影しているみたい。

クローネンバーグの映画なんかには、カナダっぽい雰囲気がひしひしと伝わってくるものがあるけれど、この映画にはない。「ボーダーライン」と同じメキシコでの撮影だといわれても信じてしまいそう。これは画面を黄色っぽく加工したり、どこでもない感じを作り出そうとしてのことだと思うけど、物語の筋とあいまって映画の雰囲気を盛り上げていると思う。

とりあえず2回見る。

90分と短いので、ラストで???となったらすぐに二週目に突入してもまあなんとかなる。そういう意味では映画館よりも家で見るのに向いてるかも。

とりあえずは分身を発見してしまうことによる主人公アダムのアイデンティティの喪失、自分の存在についての漠然とした不安。さらに、別の自分であるアンソニーの視点から、自分の満たされない不満。

そういうものが露呈して、さらに両主人公のパートナーとの関係も絡んで物語が進行する。

蜘蛛の意味について。

これについてはしっくり来る解説は監督のコメントなどを読まないとわかりませんでした。

アンソニーは満たされないものを満たそうとして自爆した。車のガラスがクモの巣状にひび割れているのは、まるで彼が蜘蛛に絡め取られるように死んだように見える。

そしてアダムが最後に巨大な蜘蛛と対面する。一人になってアイデンティティを取り戻したように見えた彼だが、実際には自分という存在を失い自分以外の誰かになってしまった状態。サラ・ガドン演じるアンソニーのパートナーにはうすうす見抜かれている。おそらくアダムが向かうのは、冒頭でアンソニーが参加していた秘密のクラブ。それを見抜かれている、という実感が、自分を見つめる巨大な蜘蛛という形で表現されている…

んだけど、それが妻と夫という関係に落とし込まれるとちょっと映画としてはありきたりというか。

全体主義についての言及

そこで監督の意図などをネットで調べたところ、実はこの映画は全体主義に警鐘をならす寓話で、全体主義の恐ろしさを物語ったものである、という趣旨の文章が見つかりました。

そういえば主人公は歴史学の教授で、講義の中で全体主義が以下に個人を抑圧するかとか話していました。二回も。

さらに、これはよく見ないとわからないと思うけど壁に書かれたグラフィティがナチス式敬礼をしている人物を描いたものだったり、遠景で撮った路面電車の線路網が蜘蛛の巣のように見えたり、なるほど、と思う箇所が。

そういう観点から見ると、迷走する主人公があがいている社会そのものの不穏を描いた映画だったということで、そう考えるとまあ納得は行きます。しかし、サラ・ガドンが蜘蛛になるという部分は、母性への反応として見るほうが自然で、ほかにも母親が数回登場する箇所をみても、そういう見方も否定されているわけではないと思います。そういう多義性も面白い。

蜘蛛型生物に支配される人々を描いたSF映画?

しかしもっと単純でおもしろい解釈は、画面上に数度現れる蜘蛛は暗喩ではなく本当に存在するもので、実は蜘蛛型生物に人類が乗っ取られつつあるというもの。

これもそれほどバカバカしい解釈ではなく、つまり「SF/ボディ・スナッチャー」だったわけです。昔の白黒映画「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」は共産主義の恐怖を描いた映画と言われています。たしかに、みんな無表情の化け物になってしまい、最後の工場だかの場面は言われてみればそれっぽい雰囲気があります。

そうした先例もあることなので、ドッペルゲンガーネタを使って、異星人襲来ものの意匠を借りて、全体主義の手口を学生に教えていたはずの先生がまさにその手口にハマって自分を見失っていく寓話的物語をつくったんだと考えると、それもそうかもしれないと思います。