「私の「漱石」と「龍之介」」の紹介。内田百閒の文章で、夏目漱石と芥川龍之介が出てくるものをほぼすべて収録した随筆集。

「百鬼園 戦前・戦中日記」出版の記念に百閒の別のエッセイ集をとりとめもなく紹介します。「私の「漱石」と「龍之介」」です。

内田百閒の随筆のなかで、夏目漱石と芥川龍之介がでてくる箇所をほぼすべて抜き出した随筆集。(全て、だったかもしれない)もちろん内田百閒の随筆集としても楽しめる。

割合でいうと夏目漱石に関する部分が6割以上を占めていると思う。百間は漱石信者だったので、それは当然でしょう。龍之介とも相当親しかったということだけれど、龍之介に関連することだと海軍学校の教職の口利きをしてもらったことと、自殺直前の思い出くらい。

漱石については思い出ばなしの他に全集のまえがきとか、森田草平名義になっているけれど実際は百閒が書いた、漱石の俳句の解説とか。ただ、重複するネタもかなりある。意外とエピソードの数としては少ないかもしれません。

これを読んでわかるのは、漱石に対するほとんど信仰に近い敬意を通して垣間見える百閒の稚気というか。この本の解説で紹介される、野上弥生子の日記の記述をみるとなんとなく腑に落ちるところがあります。芥川と一緒に遊びに来た内田百閒を見て、道化だとかお山の大将のようだと観察している野上弥生子。

百閒のエッセイはもちろん人に読まれることを意識して書かれたもので、そこに現れる自分の滑稽も文章的に演出されているものには違いないのですが、その下地となる人間性はいいとこのボンボンらしい。という印象が、野上弥生子の冷徹な日記の記述で再確認される気がします。

そういう百閒の稚気がよく見えるのが、まだ若い頃の出来事を書いた部分。これは今で言ったらバンドのおっかけとかに近いものがあるような気がする。

漱石が満州に行くことになって、そのときに汽車で近くの駅を通過するから見に行こうといって友達とわざわざ見に行ったりする。でもどれが漱石だかどうにもわからなくて、とりあえずヒゲの生えたそれらしい人をみつけて「たぶんあれだろう」「あれにちがいない」とかいって見たことにして帰ってくる。その後にオチがつくんだけどなかなか面白いエピソード。

漱石のエッセイ集にも収録されている、有名な講演を聞きに行く話も、自分だけが崇めていた先生が一般に知られるようになり、自分の手から離れたようになってちょっともやもやするというファン心理が出てきます。

百閒は相撲嫌いで、それなのに漱石が相撲を見に行くのは気に食わないとか、謡なんて文学者がやることじゃないと思っているのに漱石が謡を習うのが気に入らないとか、こういうことを平気で書くのは百閒らしいところかと思います。

ただ、ちょっと度が過ぎると思うのは漱石が百閒の家を訪れたときの話。どこを向いても漱石の書いた句や掛け軸がかかっていて、あんなまずいものを飾って置かれては困る、と漱石に苦言を呈されるわけですが、いくら慕っている先生の書だからといって家中に臆面もなく飾りまくるというのは、ちょっと傍から見ても度が過ぎるというか、いい年をした大人にしては子供っぽすぎるというか。

この部分には、「ノラや」でノラがいなくなった悲しみを綿々とつづる、あまり好ましくない百閒に通じるものがあると思いますがいかがでしょうか。

それから慕っている先生にお金の無心をしに行くエピソード。それも自宅に言ったら留守で湯河原に湯治にいっていると知らされ、仕方ないので金をかき集めて行ったことのない湯河原に先生を訪ねていく。そこでめでたく先生に出会え、お金も借りる話がついて、夕飯をごちそうになってビールを飲んで一泊して帰ってくる。帰りの汽車賃もいただいて。

百閒の借金は有名ですが、学校を卒業後、妻、子、母、祖母と一緒に一軒家を借りて住んで、しかも仕事をしないというなかなかすごい状況でしばらく暮らしています。あとは家で病人が出て、その看病に人を頼むとそれだけで俸給では足りなくなるとか。そういうことが積もり積もって借金まみれになっていったのでしょう。おそらく、身の丈とか収入に応じた生活、という概念がなく、収入より先に生活スタイルが来ていたような気がします。日記を読んでも誰それに金を借りた、年を越す金を○○に借りてなんとか工面できた、といった記述がたくさん出てきます。

百閒は弟子であり漱石を崇めている立場なので当然かもしれませんが、漱石の句集の解説や漱石全集の紹介文なんかを読むとちょっと絶賛しすぎのような気がしないでもない。

ただ、虞美人草のあたりからの漱石の人気は確かにすごいものがあったようで、わざわざ漱石をついてまわって、一緒に銭湯に入ったりして、それを新聞の投稿欄に投稿するような人もいるくらいで(それが採用されて紙上に載るのもすごい)、当時の国民的作家であったことは事実のようです。

机の上の厚い札束を前にして、「春陽堂が持ってきたんだよ」という漱石の姿もあります。それだけ本が売れていたということでしょう。

芥川龍之介については、なぜか文章でデビューする前から自分と仲良くしてくれたこと、学校の教官の口を世話してくれたこと、たまたま死の数日前、芥川龍之介を訪ねたことが主に出てきます。

印象的なのは死の直前、ゆらゆらと幽霊のように立っている芥川の姿でしょうか。睡眠薬の飲み過ぎで朦朧とした芥川は、百閒の呼びかけに不明瞭な言葉で反応するものの、その直後にはもう眠りかけていて会話にならない。仕方ないので、とくに用もなかったらしい百閒が帰ろうと思い、帰りの電車賃を貸してくれと頼んだら、危なっかしく下に降りていて、お椀のようにした両の手のひらいっぱいに小銭をもって上がってきた姿。どうしてそんなに沢山もってきたの、と聞く百閒に、がま口の中身を全部開けてきたと答える芥川。

百閒はそこから十銭硬貨を一枚だけつまんで、帰りの電車賃にします。その数日後、芥川が自殺。

この場面は「Xと云う患者」でも当然使われていて、教官の口利きをしてもらったエピソードも交えて半分引用、半分創作の形で登場します。終盤、いよいよ混迷を深める芥川の死の直前の姿が描かれ、なかなか印象的なところです。

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まとめ

漱石、百閒、龍之介。切り離せない三人なので、どれか一人でも興味のある人にとってはとても面白く読めるエッセイ集だと思います。ダブってるネタは多いし芥川龍之介に関する部分はちょっと少なくても物足りませんが、でも面白いと思います。

もちろん内田百閒のファンにもおすすめです。巻末の解説者が野上弥生子の日記を紹介しているのもいいところです。

野上弥生子の日記もけっこう辛辣というか冷徹に百閒を観察していて、こちらもおすすめできます。しかし悪口っぽいので、百閒が漱石を慕ったように百閒を慕っている人が読むと、憤慨してしまうかもしれません。

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