ジョン・ウィンダムの古典的SF小説、「トリフィド時代」。「トリフィドの日」というタイトルでも出ている。映画版は「人類SOS!」というなかなかの邦題がつけられています。新訳がでたということで、読んでみました。
これはとても有名なSF小説で、いわゆる心地よい破滅もの(コージー・カタストロフ)の代表作。であると同時に、もっと重要なのはこれがゾンビものの源流となっている可能性です。
ゾンビものの原点はロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」ですが、それにかなり影響を与えたんじゃないかなー、と思います。もっともロメロによれば、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」はリチャード・マシスンの「地球最後の男」にインスピレーションを受けたらしいですが、それよりも「トリフィド時代」に似ていると思う。
そんな小説ですが、発表は1951年。結局、後の作品に多大な影響をあたえてはいるものの結局は「古典」になってしまっていて、今読んでもつまらないのでは。
と一瞬思ってしまいますが、そんなことはありません。今読んでもなかなかおもしろく、なにより映画のゾンビものでは味わえない、小説ならではの楽しさがあります。
あらすじ
トリフィドというのは突如地球に出現した歩く植物で、この小説でのおもな脅威になります。エネルギー資源として活用できることがわかり、大量に栽培されているのですが、強力な毒をもっていて人を刺す鞭のような器官があり、迂闊に近づくと攻撃してくる危険な植物でもあります。食虫植物みたいなイメージ。ただし、動きまわるので危険極まりない。
それだけなら、人間が容易にコントロールしうる資源で、ちょっとあぶないニトログリセリンみたいなものなのですが、この小説の肝はある日突然、地球上の99%以上の人間が一夜にして失明してしまうという点にあります。
ある日、謎の巨大流星群が地球に接近します。どこでも観られる天体ショーとしてテレビでも中継され、緑色の光が空一面を覆う一大スペクタクルを多くの人が楽しみました。舞台となっているイギリスでは午後、かなり長い時間続いたようで、特別な事情がないかぎり多くの人がそれを楽しみます。
そして翌朝。前日に緑の光を見た人は、すべて失明してしまいます。そして、一日にして文明が崩壊する。
これが物語の始まりです。
トリフィドが絡んでくる前に、失明した人々が手探りで街をウロウロする姿、絶望した人が自ら死を選ぶ様子、食料品の略奪などが描かれ、そのへんがゾンビもののフォーマットの元祖のように思えます。
主人公は流星ショーの前にトリフィドの毒液に目をやられ、眼帯をして一週間入院中だったので難を逃れました。目が覚めると病院には誰もおらず、恐る恐る眼帯を外し外に出てみて状況を知ることになります。
そして、僅かな目の見える人々と、崩壊したイギリスをさまようことになります。生き残った人々が謎の疫病にやられ次々に息絶えていくなか、安住の地をもとめてグループを結成しますがさまざまな対立がありなかなかうまく行きません。やがて、失明した人間にとってトリフィドが恐ろしい脅威となっていることを目の当たりにし、トリフィドに知性のようなものがあり、生き残った人間を集団で包囲して襲っているらしいことに気づきます。
この小説の読みどころ
で、映画のゾンビものとかだと劇中の5割以上はゾンビとの戦闘などのアクションシーンに費やされることになると思うのですが、この小説ではトリフィドとの戦闘場面はそれほど出てきません。
そうではなく、生き残った人間同士の対立が物語の原動力となっていて、さらに著者の社会的メッセージや文明批判的な文章が盛り込まれて小説を構成しています。
トリフィド自体はソ連で研究開発されたもので、それをソ連の科学者が国外に持ち出して亡命しようとします。しかし勘付かれたのか飛行機が空中で撃墜され、トリフィドの種が大気中に飛散、それによって世界中でトリフィドが出現するようになります。
流星群についても、実は政府が打ち上げた人工衛星に搭載された生物兵器が原因である、という推測がなされます。疫病についてもそう。
そして生き残ったものたちも、すでに文明は崩壊したのだから現状に適応して維持可能な人口だけで実際的に生きていこうとする者、目の見えない人たちも含めてなるべく多くの人を救おうとする者、あくまでも旧来の生活スタイルにこだわりキリスト教的道徳を重んじる者、力を権力とし新たな支配制度を確立しようとする者が登場します。
それらのグループが一堂に会して議論するのではなく、主人公がほとんど成り行きで様々な拠点を転々とする中でそれぞれに遭遇する、という形式。
映画のゾンビなんかでもこうした要素は凝縮されてあらわれていると思いますが、より穏やかな形で、そしてストレートに個々の社会に対する考え方、理想の社会像を語っているのが印象的で、実際この小説の読みどころはトリフィドよりもそこにあると思いました。
トリフィドについても、人類がうまく利用していたはずのものがいつのまにか人類を支配しそうになる、しかも(主人公の憶測が正しいとすれば)人類の開発した兵器が切っ掛けで、という究極の皮肉のメタファーみたいに思えます。そのへんをみても、やっぱりこの小説は社会派SFの系譜に連なるのではないかな、と思います。
似た作品、影響を与えた作品
たくさんあると思いますが3つ。
28日後…
ちなみに「28日後…」は「トリフィド時代」に触発された、と脚本のアレックス・ガーランドも監督のダニー・ボイルも明言してます。
これはもろにインスパイアされてます。主人公が無人の病院で目覚めるところ。女性=次代の担い手という考え方。主人公が敵対する側も、必ずしも完全な悪ではなくそれなりの考えのもとに行動している点。なにより、崩壊し無人になったロンドンや郊外の風景は、もちろん舞台が同じなので当然かもしれませんが小説とよく似た雰囲気を醸し出しています。その他にも主人公がベッドの両親を見届けるシーンとか、ところどころで似た場面があるように思います。
一番違うのは他国の存在かな。「トリフィド時代」では、外国もイギリスとおなじ状況であることが示唆されますが、「28日後…」では異変が起きているのはイギリスだけということが示唆されます。映画の異変の発端からして、それで当然で、この映画の明るい結末はとてもいいと思います。
スタンド
それからキングの「スタンド」にもかなり影響してると思う。キングは「死の舞踏」だったかでジョン・ウィンダムを非常に評価していて、「スタンド」を書く際には、プロットに似た箇所があるのはネタが一緒だから当然とはいえ、それ以外の点でも意識的にせよ無意識的にせよ「トリフィド時代」のことが脳裏をかすめていたに違いないと思います。
キングが「トリフィド時代」を元にして「スタンド」を書いた、ということはないと思いますが、2つの小説の態度の違いを見比べると面白い。
「トリフィド時代」と「スタンド」の一番の違いは、宗教観のような気がする。
トリフィドでは主人公はいくつかのグループを転々として、それぞれの思想に触れます。そのなかで最も評価されているのが、自活できる範囲内で集落を作り、文明の再建を目指すグループ。最初にはぐれてしまうんですが。キリスト教的価値観に固執するグループは頭の固い愚か者的に描かれていて、彼らのグループは程なく疫病で崩壊します。それぞれ違いはありますが、どれも同じような人間のグループとして描かれていて、考え方に違いはありますがとくに優劣や善悪の違いはありません。
それに対し「スタンド」では明確に善悪が区別され、主人公もたださまよっているのではなく全なる力に導かれて移動しています。そして結末に向けての運命論的な物語の流れも、なにか大きな力の存在を感じさせるものになっています。
著者の宗教観の違いなのか、イギリスとアメリカの違いなのか。同じ文明崩壊ものでもたどる道筋はかなり異なります。そういえば、ラストシーンはどちらも結構似ている気がします。
復活の日
小松左京の「復活の日」の映画版。原作は読んでいません。ウィルスで地球上のほぼすべての人が死滅するという、どっちかというと「スタンド」よりの話なのですが…。でもすこし「トリフィド時代」を読んでいて思い出した。前半のいろんな悲惨なエピソードはトリフィドにはありませんが、南極基地の人たちのところで。「トリフィド時代」で主人公が最初に遭遇した理性的なグループによる文明再建を描いたらこうなる、という感じがします。
心地よい破滅もの
第二次大戦後に書かれた一部の終末ものを表して、ブライアン・オールディスが名付けた呼び名が「心地よい破滅もの」。世界の崩壊をよそに、主人公たちは比較的安穏と暮らしたり文明談義に花を咲かせたりするタイプの話のことで、その代表格が「トリフィド時代」とされています。
そんなに心地よいようには思えませんが…たしかに、実際にそういう状況になったときに予想されるいろいろな悲惨な部分がオミットされているようには感じます。登場人物たちがかなり理屈っぽくて、理屈通りに物語が展開するところもあります。
ようは、多少ご都合主義的な部分を含んだ微温的な週末もののことでしょうか。「渚にて」のような救いようのない週末ものと比べると、たしかに心地よいかもしれません。
続編
2001年になって別の著者の手で続編が書かれています。その名も”The Night of Triffids”「トリフィドの夜」。原作が “The Day of Triffids” なので「ゾンビ」式のまっとうな題名になっています。今回読んだ新訳は邦題が「トリフィド時代」でしたが、そうするとこの続編のタイトルがなかなかつけづらい。続編の翻訳は出ないのでしょうか。