ピーター・ストラウブに感じるちょっとした違和感

ストラウブ自身の気になる点。おもにlost boy lost girl から。

まず、人物の描き方。

虐げられた女性が(虐げる自己中心的な男とセットで)多く出てくるのは、これはストラウブの癖なので構わない。問題はでてくる女性がみんな美しくて、その美しさもただただ美しい、目が眩むほど美しい、今までみた女性の中で一番美しい、とか書いてあるだけなことが多い気がする。そして、美人である、ビューティフルであることにこだわりすぎている。ので、少し類型的に思える。まあ、小説の主人公クラスの女性ってだいたいきれいで美しいということになっているけれど、べつにそうである必要はない。ストラウブの何のてらいもないこの美しさの連発をみると、単純にきれいな人、物が好きなんだろうなあと思う。

それからむかつくやつ、自己中心的な人でなしを描くのが得意。lost boy lost girl ではティムの弟のフィリップがほんとにどうしようもなく救いがたいやつに描かれている。しかし、フィリップの屑っぷりはしっかり書かれている一方で、ティムはほとんど空気みたいになっている。これはつまり、ティムは主人公でいい人なんだけど、彼をより詳細に描写しようとすると、ついついティムの粗が露呈してなんか癖のある人物になってしまうのを恐れたのでは。冒頭の、マークとティムのメールのやりとりでティムが物わかりのいい、理解のある分別もある大人であることが伝えているけれど、ちょっとずるいやり方のような気がする。

連続殺人鬼を、やはり問題のある人たちが追う「ココ」、主人公が自覚的な社会不適格者といっていい「ミステリー」、完全なファンタジーである「シャドウランド」、ゲスな殺人鬼が主人公といってよい「ヘルファイア・クラブ」、こうした作品でストラウブのひねくれた描写になんの問題もない。逆に、それ以外の人を書くのが苦手なのでは。ストラウブの小説で善意の塊みたいな人物が描かれたことはないんじゃないか。

たぶんストラウブには、例えばキングの小説によく出てくる、すごく善良な知恵遅れ的な人物を描くことはできないと思う。これはストラウブの一つの特質で、悪いことではない。純粋な少年が主人公でその救済がテーマのlost boy lost girlみたいな作品をみると、ストラウブのその特質がかえって浮かび上がるような気がする。

それから、ストラウブ自身のスノビッシュな態度。個人的にはこれが一番気になります。ストラウブ自身の人間性を露出しているかも知れないからです。例えば”lost boy lost girl”でのマークがエミネムを聞いている、しかしそれは皮肉な意味で聞いている・・・などという描写。ストラウブ自身の、エミネムとか流行り物ってださいよね、という気高い意識を露呈しているようだ。それとは逆にトム・パスモアが高そうなオーディオ装置でモーツァルトのピアノソナタ、おそらくは内田光子かアルフレッド・ブレンデルの演奏を聞いている、なんてのは無批判にお上品ないい趣味として描かれているようで、この2カ所だけでいうのは無理があるけれど、どうもここから感じるスノビズムには気になるところがある。それともわたしが勝手に感じているだけなのか。ストラウブの小説を読んで、鼻持ちならないと感じる人もいるような気がするが。

ジャズが好きでウィスキーを飲んで大学で文学のお勉強をしたストラウブの小説が、時に気障ったらしく感じるのは当然なんだろうか。

ロックを聴きビールを飲み小説を浴びるように読むスティーブン・キングの小説が、時にストラウブより高邁なものに感じるのはなんでだろう。そういえば作家に聞く好きな本ベスト10見たいなやつで、キングの好みがずいぶんと「ハイブロウ」なものだった、というのを見かけた気がする。どうも、ストラウブは小手先のテクニックに通じていて、キングの小説にはもっと本質的なところで純粋な人柄がストレートに現われているのかも知れない。

よく比較される二人を比較してみたけれど、やっぱり全然違う性質の作家で、だから二人で共作したりするんでしょうね。

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