グレッグ・イーガン「ゼンデギ」の感想。

「ゼンデギ」はグレッグ・イーガンのSF小説。

イーガンと言えばハードSF。しかも、超ハードなやつ、というのが大勢の意見。

たしかに、ハードSFだと思う。しかし、ハードSFという呼び方は、ある種の人を強く惹きつける一方、敬遠してしまう人も沢山産み出す、もったいない面ももっている。

本格推理とか新本格もそうかもしれない。本格推理なんかは、好き嫌いを別にすれば取っつきにくさはそれほどでもないと思う。本格推理ものによくある密室殺人なんかもマジックみたいな物で、一見複雑に思えても最後には謎が解き明かされるので読んで理解できないということはない。しかしハードSFというと、めんどくさくて読んでも理解できないのでは、という印象がつきまとう。

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まずイーガンについて。

SF小説をあまり読んだことのなかったわたしがイーガンを読んで達した結論は、ハードSFが難解というのは誤解であるということだった。というか勝手にそう思い込んでいた。

多くの場合、ハードSFというのは要するにもっともらしさの度合いがその他のSFより高い、というそれだけの意味に過ぎない。難解なハードSFもあるかもしれないが、難解な小説はハードSFに限らない。ハードSF=難解というのは単なる誤解。

わたしは数学とか物理とかまったくわからず、SFもあまりよんだことがなかったけど、ある日本屋さんでイーガンの「宇宙消失」を手にとり、続けて「順列都市」「万物理論」「ディアスポラ」その他短編などを読んだ。面白かった。多少難解な部分もあるかも知れないが、その難解さは小説の本質ではないし、食わず嫌いで読まずにいるのがもったいない面白さがある、と思った。

中には本気でわからないものもあるが、ここにあげた4作は普通に理解可能だと思う。

結局、テクノロジーがテーマなんじゃなくて、それによってあぶり出される人間性とか、個性とは何かといった問題が主題になってくるみたい。SF的設定でそうした問題をよりはっきりと取り上げている感じ。

「ディアスポラ」は登場人物のほとんどが非人間だから人間性ではないけど、まあ人みたいなものだ。主人公のヤチマ君が、自分はなぜ存在するのか、とかだれもが疑問に思う問いに、長い長い旅の果てに一つの結論を見いだすラストシーンには、胸を打たれた。

聖書とかが宗教から始まる人間性の追求だとすると、こういうSF小説はまったく別の方向から人間性にアプローチするもので、こっちのほうが地に足がついていて取っつきやすいという人も多いと思う。発祥はデカルトとかになるんだろうか。

どちらにしろ、行き着く先は同じ。イーガンのSFも「人とは」、みたいな大雑把に文学というくくりに入るテーマだと思うので、そういうのに興味があって、しかしSFは苦手と言って読んでない人は、絶対に損をしていると思う。

遠未来ではなく近未来ものです。

で、「ゼンデギ」について。

イーガンは遠未来の話も近未来の話もかいているけど、この「ゼンデギ」は長編のなかではもっとも現代に近い話だと思う。なにしろプロローグは2007年、第1章の舞台は2012年のイランで、すでに過去になっている。プロローグに続く本編も、そこから10年ちょっとくらいしか経っていない。

本作のネタのひとつはVR(ヴァーチャル・リアリティ)で、PS4とかオキュラス(Oculus)とか最近ようやく実用化されつつあるものを先取りしている。その辺の感覚はいつもながら早いなあと思う。

小説中にもVRゲームの世界がちょこちょこでてくる。ゲーム自体の内容はロールプレイングゲームのミニクエストみたいな、どっかにいって○○をとってこい、みたいな他愛もないものだけど、迫真のリアリティを誇るVR空間ではその世界にいるだけで楽しいように描写されている。

それからもうひとつ、もっと重要なネタは、人格の電子媒体へのコピー。

人格のコピーとか仮想空間でのアバターとかはイーガンの小説では、というかそれに限らずおおくのSF小説ではもはや当たり前になっている技術。「ゼンデギ」でそれがようやく実用化の目処がたつかな、という当たりのお話で、人格のコピーにまつわる技術的な話から始まって、人格と、その自他による認識の違いみたいな話になる。

人格の複製にまつわる話がおおきな部分を占めるんだけど、登場人物の父子の境遇を絡めてストレートな親子の愛情の物語でもある。そして、「他人から見た場合の」自分はどう映るのかといった問題が提起され、結局は人間の完全な理解や客観視などあり得ないのではないか、という話にもなっていく。と思う。

よくわからないんだけど。

「宇宙消失」みたいな、宇宙が消える!というSF的ハッタリもないし、ハードボイルド調のサスペンスもないし、けっこう地味な話かもしれない。出だしも、イランの政治状況みたいな新聞記事みたいな話から始まって少し取っつきにくいのですが、でも面白いんです。

まあ、よくわからないので、とりあえずあらすじを書くので興味があるかどうか読んでみてください。

以下はネタバレを含むあらすじと感想の走り書きです。

ゼンデギとサイドローディングについて。

そもそものゼンデギとは、VRゲームのフォーマットの一つ。

競合他社との競争に苦しんでいたゼンデギは、キャプランという富豪の援助をうけてサイドローディングという技術の実用化に成功する。

サイドローディングはかんたんにいうと、ゲーム内に現実の人間の行動を取り入れる技術。被験者に特定の行動をさせて、そのあいだの脳の活動を測定し、同時にゼンデギ内のプロキシにコピーすることで、ゲーム内のプロキシがリアルな人間の行動を行えるようになる。モーションキャプチャーみたいなものかな。

プロキシっていうのは、ゼンデギにおける仮想人格。いまのゲームのNPCとかbotに相当する。ただ、単なるプログラムではなくもうちょっと複雑で、高度なAIに近い。

プロキシは、ゼンデギで技術面を担当している科学者ナシムが個人的に研究して作り上げていたもの。多くの被験者の脳MRIなんかを統合して人工的に構成されたニューラルネットワークであり、つまりVR上で作り上げられた仮想の脳に近い。

このプロキシは初期状態では行動もなにもプログラムされていない、まっさらな状態。そこに基本的な語彙や記憶、ゲームごとに対応する反応を組み込んでいくことで、ゼンデギ内のNPCを作り上げていく。

現在のゲームの3Dモデルとモーションキャプチャーの関係を、AIにあてはめたと考えるとわかりやすい。

で、サイドローディングを使うことで、プロキシの行動をひとつひとつ手付けでプログラムしていくかわりに、汎用性のあるよりリアルな人間的な反応を、比較的簡単に組み込むことができるようになった。複数人のサイドロードを合成することもできるし、プロキシはいくらでもコピーできる。

ナシムはこの技術を利用してサッカーゲームにリアルな有名サッカー選手を登場させ、ゼンデギにヒットをもたらした。

サイドローディングを利用した人格のコピー。

もう一人の主人公がマーティン。妻は事故で死に、自分も肝臓ガンで余命いくばくもない。一人息子は親友のオマールが引き取ることになっているが、オマールの差別的な言動がきになったりしてどうしても息子を任せきることができない。そんななかで「ゼンデギ」の技術を知ったマーティンは死後も息子の手助けになれるよう、「ゼンデギ」に自分の人格をコピーしたプロキシを残そうと決心する。

マーティンの相談をうけたナシムは、プロキシそのものも、サイドローディングも、本物の人間に比べたら極めて不完全なものであると説明した上で、マーティンの要求を受入れる。

プロキシをなるべくほんものの自分に近づけるべく、臓器移植手術日ぎりぎりまで何度もサイドローディングを繰り返すマーティン。そして彼はプロキシの最終チェックのため、自分が息子役となってゼンデギに入り、自らのプロキシと対面する・・・。

このあともすこし続くんですけどね。

結局のところ、人格のクローンに意味はあるのか。

結論から言うと、マーティンのプロキシには看過できない欠陥があってクローンの作成は失敗ということになる。小説冒頭の音楽CDのコピーのエピソードもクローンの比喩となっていて、読者にとっても失敗することは最初からわかりきっていた。

しかし、マーティンの望みはかなわないのかというとそんなこともない。懸念していたオマールの問題は、オマールとしっかり話し合うだけで、いとも簡単に解決してしまう。そして、息子やオマールとの対話を通じて、息子は自分がいなくてもやっていけるだろう、と納得する。

結局、マーティンのプロキシ大作戦は無意味であった、ということになる。

皮肉なのは、マーティン自身、自身のプロキシ化なんて無意味であるとうすうす分かっていたはず、という点。

マーティン自身、妻のマフヌーシュが事故で亡くなったあとも、常に身近にマフヌーシュの存在を感じ、面影を感じ、その言動を心のなかで見聞きしていた。妻はプロキシなんかにコピーせずとも、マーティンの心の中には確かに存在していた。そして、その存在は何かにつけてマーティンの力になっていた。

だとすれば、息子にとってのマーティンも同じことではないのか。

息子は母の死後、両親の写真を好んで見ていた。息子にとっては写真を見ることが亡き母を蘇らせるよすがになっていたのでは。

そしたら、プロキシなんていらないじゃん、ということになる。結局はプロキシは不完全なものだし、愛する人を失っても人は前に進んでいくしかない、という。

人格コピーの是非。

コピーが当たり前になる手前の段階を描いた小説としてなかなかおもしろかった。

人格コピーの是非についてはこの小説では判断が保留されている。マーティンに協力したナシムも、プロキシによらずとも故人の思い出だけで十分に意味があると承知していた。その上で、思い出より強固な存在としてプロキシが役に立つかもしれない、という思いから、不完全を承知でマーティンのサイドローディングを実施した。

結局マーティンの試みは失敗におわったし、その未熟な技術が悪用される可能性もある。しかし、完全な人格コピーによって、よりより未来が開けるという期待は失われていない。

まあ、イーガンの他の小説では人格コピーはもう当たり前の技術となっているので、イーガン自身としては「ゼンデギ」で書かれているような過渡期はやがて過ぎ去ると考えているのではないでしょうか。

まとめ

個人的にはマーティンと息子、オマールの最後のやりとりあたりがもっとも面白く感じましたが、サイドローディングされたマーティンの仮想人格の最後も、なかなか記憶に残る面があります。その辺が同列に書かれているのがイーガンのこの小説の面白いところでもあるのかな。

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