映画「マトリックス」はトランスジェンダーの映画である、と監督が明かした。言われてみれば納得できるけど、映画だけでそれを言うのは無茶かもしれない。

映画「マトリックス」の物語は実はトランスジェンダーの暗喩だった、と監督が明らかにした。

そういうことなら、いろいろと納得できる点がある。

そもそもマトリックスの世界ってSF的な未来の世界に近いと思う。よくあるSF的未来では、人類は人格を仮想空間にアップロードして、肉体的制約から開放されて暮らしている。その設定は物語の前提であって、その仕組み自体の是非が問われることはあまりない、と思う。

マトリックスの場合も、実際の肉体がカプセルに閉じ込められているという点の除くと、仮想空間での暮らしはとても理想的なものに思える。なにも不自由がないし、マトリックスの主人公たちがなんでその世界を抜け出して汚く危険な現実の世界に戻りたいのかよくわからない。

マトリックスの世界は機械が人間に与えてくれた理想の世界で、人間はエネルギーの供給源となる代わりに機械に一生面倒を見てもらうという、人間と機械のある意味で理想的な関係なんじゃないのかしら、とも思った。マトリックスの機械はターミーネーターみたいに人類を皆殺しにするわけでもないし、人間が環境破壊や戦争の結果自滅することもない。

そもそも人間から供給されるエネルギーが機械の動力源その他になるっていうのが、質量保存の法則とかエネルギーのバランス的に無理があるという気もした。

あまり詳しく映画を見ていないのでとんでもない勘違いをしているかもしれないのだけど、マトリックスについてはだいたい上記のような理解だった。

で、ウォシャウスキー監督がじつはトランスジェンダーのメタファーでした、と宣言したことで、それなら主人公たちは現実に目覚めなければならないし、まやかしの世界を抜け出さなければならないわけで、そこに理屈は不要なんだな、と納得したのでした。

マトリックス自体をトランスジェンダーの物語として見るのは難しいと思う。映画の要素だけからはそういう含意は読み取れないような気がする。物語だけでマトリックス=トランスジェンダーの物語と判断するのなら、Vフォー・ヴェンデッタもそうだろうし、小林泰三のおとぎ話ミステリーシリーズもそうなる。小林泰三が性転換をして、実はおとぎ話シリーズはトランスジェンダーの物語でした、と発表したらなるほどと納得するだろうし、そういう発表がなければそんな可能性に微塵も気づかない。

トランスジェンダーの人たちは最初からマトリックスにそういう寓意を見ていたそうだが、わたしには決して思いつかない考えだったろうと思う。なので、マトリックスの監督が映画の意図を明かしたのには大きな意味があるといえる。

とはいえ、それで映画の評価、感想、見方が変わるかどうかはなんとも言えないところ。

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