「葛城事件(かつらぎじけん)」の感想。次男じゃなくて、父親がサイコパスだった。

息子が連続殺傷事件を起こして崩壊した家庭を描いた映画。いくつかの実際にあった事件を元に構成されていて、事件を起こした犯人の言動、かれと獄中結婚をする女性の登場、事件の様子などに現実の要素が取り入れられているそうだ。

で、「息子が事件をおこした」せいで崩壊する家庭の話なのかと思ったら、そうじゃなかった。これは、父親という強大なキチガイがいて、父親の影響で一家が崩壊するという話なのだった。

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三浦友和演じるサイコパスお父さんによって一家が崩壊する話。

この映画の父親はすごいサイコパスに思える。それが妥当かどうかはともかく、わたしは三浦友和演じるサイコパス親父の映画として、とても興味深くみることができました。

この家庭は4人で構成されている。父(三浦友和)、母(南果歩)、長男(新井浩文)、次男(若葉竜也)。連続殺傷事件を起こすのは次男で、映画はその事件後、家庭が崩壊し、父が一人で家に暮らしているところからスタートする。

しかし、すぐに時間は遡って一家の過去を物語り始める。そこから見えてくるのは、横暴な父と、その支配から逃れようとする家族の物語だった。次男が事件を起こすのは発端ではなく、極限まで行き詰まった末の行動だったように見える。つまりこの家庭崩壊は、すべての家族が父親から逃げ出した結果発生したもので、その元凶は父親にある。

父親がおかしいのはみていてすぐわかるんだけど、どの不幸も、父親がその原因になっていると思える。

最初の犠牲者:長男

まず犠牲になるのは長男。かれはもっとも安全な場所にいて、本来なら父親の支配から逃れられるはずだった。仕事もあり、結婚して子どももいて、実家を出てマンションで暮らしている。しかし、仕事をリストラされるという不幸に見舞われる。

妻にもそれを切り出せず(新井浩文の弱気な演技がなかなかいい)、行き場を失って毎日講演のベンチでパズル雑誌とか読む日々。ある日、真っ昼間に父親のやっている金物店にふらっとやってきた彼は、普段父親が座っているカウンターに腰掛けてみて、「おれ、この店継ごうかな」と冗談めかしていう。

普通のお父さんの場合、あるいは普通の家庭を描いた映画の場合、この流れで息子になにかあったのかな、仕事がうまく行ってないのかな、ということを父が察し、息子はリストラされたことを打ち明ける、ということになる。しかし、この父の場合はそうじゃなく、店を継ごうかなという長男に一言「ダメだ」というだけ。

その前の中華料理店の素晴らしいシークエンスで父親がモンスタークレーマーであることが明かされていて、さらに父は男は家を建てるべきだとか、それは男としての気概の問題だ、とかまくし立てる。家でも普段から同じ調子の父に対して、気弱そうな長男は常に気圧されていただろうことが想像できる。とてもリストラされたなんて口には出来そうにない彼は、なんとか切り出そうとして店を継ぐとか言い出したんだろうけど、その希望も無碍に絶たれた。

就職活動もしていて、面接まで行くんだけど、極度の緊張で汗びっしょり、自分の名前も言えないような有様で明らかになにかおかしい様子。

そして、どこにも逃げる場所がなくなった彼は、飛び降り自殺する。

妻と一緒に別の生活を送ればいいのに、とも思えるんだけど、自殺のシークエンスの前に、逃げ出した一家を父が強引に連れ戻すというシーンがある。長男としては、父親の影響からは一生逃れられないという思いを強くしたに違いなく、父との関係性が妻とのものよりも重視されたのかもしれない。かれが遺書としてレシートの裏に残した言葉「申し訳ない」というのは、明らかに父親に対する弁明。

二番目の犠牲者:次男

次男は長男と違って、バイトが長続きしないニート。父は親からただ金物屋を継いだだけで自分では何もしてないとか、今に一発逆転するとか口ばっかで、父親に対しても反抗的。しかしそういうことを言えるのは母親に対してだけで、直接父親に面と向かってそういうことはいえない。ほとんど目を合わせることも出来ないような感じ。父親からは常に仕事をしろとか、やる気があるなら大学にも行けたはずだとか、多分一年中言われている。

父に対しては反抗的で、父親に対する不満が爆発しそうになっているはずだけど、反抗が直接父に向かうことはない。長男の息子=甥っ子が家にいるとき、その子を殴って怪我をさせる。ゴミ捨て場に火をつける。その原因は、父親に対するフラストレーション。しかし、父親と直接対決することは出来ない。

母が思い切って父のもとを逃げ出し、アパートを借りて暮らし始める。そこに次男もついていくが、すぐに見つかってしまう。アパートに来た父親は次男を足蹴にし、タオルで首を絞めて半分本気で殺そうとする。その後も包丁を持ち出したりして危ないんだが、ここで次男が発言するのは父親にではなく、見ていた長男に対して。「あんた、俺が死ねばいいと思ってたんだろ。俺だって別に死んでも構わない」といったことを言うが、すべて兄に対してであって、父親に対しては一言も発しない。なお、このシーンでは長男も父親の暴力を止めようとはせず、ただ傍観している。

その後、次男は通販ででかいサバイバルナイフを購入し、駅の地下通路で通行人を何人も殺傷し、それによって死刑判決を受ける。

死にたいから、という理由でこの事件を起こした彼は、死刑を言い渡されたときに父親のほうをむいてニヤリと笑ってみせる。サバイバルナイフで父親を刺殺すれば束縛から逃れられたのに、それをできずに死刑になることで父親から逃れたようにも思える。直接、父親を刺すなんて言うことはとてもできなかったのではないでしょうか。

次男は次男で、凶悪犯罪の犯人ではあるけれど、父親の被害者であるというのは間違いない。だからといって犯した罪が軽くなるわけではないけど。

第三の被害者:母親

母親は次男の事件後もしばらくは父と暮らしていたようだが、父の呼びかけにも反応できないような感じになり、そのうち完全に正気を失い、施設に入り車椅子で生活するようになってしまう。

ただ、その前から母親も少しおかしい様子。まず、この家庭の食事はすべてコンビニ弁当か出前かカップ麺。少なくとも劇中では調理している様子が一切ない。

父から離れて次男とアパートを借りて暮らしているシーンでも、食べてるのはコンビニのスパゲティ。この場面が唯一、母はパートとして働いてたり、次男もバイトを探してたりして、そこに登場した長男と一家団欒っぽい雰囲気になったりして、希望が見える場面かもしれない。でも、それがまやかしであり、いずれ父親に見つかることは母親自身がよく承知していたみたい。結局、次男を殺すと脅す父に対して、母は家に帰るから許して、と懇願する。そのあたりから、もう母親の神経はおかしくなりかけているような感じ。長男の通夜で妙に饒舌にくだらないことを喋って笑っているのはちょっと気が触れかかっているみたい。

結局母親も廃人になることで、父親の呪縛から逃れた。

ちょっと牽強付会でしょうか。でも、こういう解釈をすると全部納得できるような思えます。

全ての元凶:父親

そして父親。この人は、完全なサイコパスであると思います。

この映画はすべてが崩壊したあとから始まります。家の壁そこらじゅうに落書きをされ、それを消している三浦友和。一家離散しただれもいない一戸建てに一人で暮らす割にはどうにもふてぶてしい印象。事件をしって接触してくるものを「サッカーの応援とかで、渋谷に集まっている連中と同じ、馬鹿だ」と言い放つかれは、自分が悪いとは思っていない。

観客も、まあ連続殺傷事件を起こしたのは次男で、父親も被害者なのかもしれないな、とこの時点では思う。しかしその後、父親のおかしい行動が随所に散見されると、冒頭の態度が彼の素の態度であることがわかってくる。

ようするに、自分はなにも悪くないんです。自分は被害者であり、全部他人が悪い。

崩壊後からはじまり、崩壊過程が描かれ、また崩壊後に戻ってくる。その時の父親の不変ぶり。長男が死んでも、次男が事件を起こしても、奥さんが施設に入っても、多分自分に原因の一端があるとちらりとも考えてないように見える。もっとも衝撃的なのは、次男と獄中結婚する女性(田中麗奈)との最後のやりとり。次男の死刑が執行されると、かれはこう聞く。「じゃ、次男とはもうなんの関係もないんだな?」そして次の瞬間、やおら女性を押し倒し襲いかかる。「おれも3人位人殺したら家族になってくれるのか?」とか言って。

これがこの男の考え方で、素の行動なのだとおもう。一家離散してやけになったから、とかじゃなく。田中麗奈に対しても、次男と獄中結婚した理解不能な馬鹿、としか思ってない。

次男の死刑について、「やっぱり死刑は止めてほしい」という場面がある。「あいつは死刑を望んでいるんだから、もっと生かしてやったほうが罰になるだろ」という。その直前の場面で、スナックを出禁になっていて、それに腹を立てたのがこの発言の理由だと思う。照れ隠しとかじゃなくて、本気でそう思ってるだけなのだ。

毎朝出勤する金物屋も不思議だ。客なんて一人も来ないような、町中の小さな金物屋。しかし、このごちゃごちゃ狭いお店のカウンターのむこうはなんとなく妙に居心地が良さそうにみえる。昔は客もいたんだろうが、いつしか誰も来なくなったこの店の店番をしながら、父親が独りよがりの考えに日々磨きをかけていたと考えるとなかなかゾッとしないものがある。

父親はなぜ最後に自殺を試みるのか。

ここだけがサイコパスとしては唯一、理解できないところだ。まあ、サイコパスも人間だから。結局、自分の城であった家庭は崩壊し、田中麗奈に怒られ拒絶されて、一時的にいやになったのかもしれない。しかし自殺は失敗し、その自殺行為がいっときの気の迷いであったかのように、彼は居間に戻って食べかけのそばを食べつづける。そして、世間的には、かれは身内の事件のせいでとばっちりを受ける被害者とも取れるわけだ。かれが元凶であることは立証されないし、証明できる人はもうだれもいない。

長男家族と縁が無くなった妻の晴れ晴れとした表情が印象的。

父親を悪者にすることで、妙だけど映画としては安心できる。

わたしはこの父親がサイコパスとして描かれていてよかったと思う。というのは、そうでないとこの映画があまりに救いがないから。次男の事件も、お母さんの廃人化も、すべてお父さんが悪い、としてしまえる。そういう「理由付け」が出来ることで、この映画はかろうじておすすめできる娯楽映画の範疇にとどまれる。

もしこの映画の三浦友和が本当にいい親父で、それなのにこんなふうになってしまっていたら、長男がわけもなく自殺していたら、次男がわけもなく人を刺殺していたら、一体どうすればいいんだろう。

しかし、恐ろしいのはまさにこの映画のモデルになった事件は、だいたいそういう話だというところ。たしか連続殺傷事件で、犯人のお兄さんが事件後に自殺した例があった。それに犯人のお父さんが全員悪い父親なのではないし、犯人の兄弟姉妹はまとも。つまり、サイコパスがどこでどうして出てくるのか、そこに理由なんてない。

田中麗奈の役どころについて。

田中麗奈はいったい何の役回りなのか。犯人と獄中結婚なんて普通は考えられないと思うけど、モデルになった事件で実際に獄中結婚をした人がいたので、いたんだからいるんだといわれれば仕方ない。この映画の田中麗奈の場合、彼女は死刑反対論者で、そういう主義主張が結婚の第一の理由なわけだけど、こういう犯罪の犯人に惹かれるという人は必ず一定数現れるらしい。アメリカの連続殺人事件の犯人なんかでも、犯人に同情的であったり結婚したいというような人が結構な人数いたそうだ。

この映画の場合、田中麗奈が観客の良心の代弁者として機能しているように見える。良心というか性善説というか、次男にも理解出来るところはある、分かり合えるという優しい考え方。獄中結婚は理解できなくても、理解できると思う部分はだれにもある。そして、その性善説の部分に冷水をぶっかけるのがこの映画のラスト。

その他。

この映画で引っかかるところ。それは通夜の席で、長男の妻(内田慈)からこうなったのはあなたの家庭の責任だ、と直撃された母が、妻であるあなたがどうして夫のリストラを見抜けないのか、むしろあなたのせいだ、と返す場面。妻もこれには詰まってしまい、え、どうして?みたいな絶妙な表情を見せるわけだけど、果たしてどちらが正しいのだろうか。

個人的な感想を言うと、ここでは責任の所在のなさを表しているのではないかと思う。長男の妻は中華料理店での素晴らしいシーンや、その際に預かってもらっていた息子が怪我をしたことなどから、父親、ひいては一家全体がちょっとおかしいことに感づいていた。彼女が食って掛かったのは、具体的に自殺の責任がどこにあるかというより、葬式でへらへらしている態度に対してなんだけど、それが結果的に自殺の責任を問い直すことになった。

で、長男の妻も、母親も、自殺についてはなんの責任もないんだよね。リストラに気づかないのも、長男が巧妙にまったく素振りにも見せなかったとしたら、育児で忙しい妻が次の給料日くらいまでは気が付かなくてもおかしくないだろうし。とすると、悪いのはなんなのか。

これもやっぱり、悪いのは父親であると、指し示しているように思えるわけです。長男がリストラを隠したのも、全ては「申し訳ない」に表されるように父親に対する恐怖からだったのではないかと。

それから、母親が「むしろあんたが悪い」と長男の妻に責任転嫁したのも、全ての元凶である父親に対しては、完全に被支配関係にあるために反抗することができず、やむを得ず別のはけ口を見出したように思える。

まとめ。

 

演技はみんなよかった。みんないいんだけど、とくに次男役の若葉竜也。かれの今の若者風のしゃべりかた、非常にリアルだし、刑務所での面会の場面もとてもよかった。

重苦しい映画だけど、三浦友和の演技もいいし一見の価値ありです。中華料理店、スナックの場面は必見。

  • 葛城事件
  • 監督: 赤堀 雅秋
  • 2016年
  • 上映時間 120分

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