Netflix版デスノートを見たので感想を書きます。
Netflixで「デス・ノート」のアメリカ版リメイクが放送されると言うことで、しばらく前から宣伝されていました。8/25の放送開始日は、Netflixを起動すると勝手に「デス・ノート」の宣伝が始まるほどの力のいれようで、せっかくなので見てみた。
まず、勘違いしていたのですが連続ドラマではなく単発の映画でした。それも100分程度の長さで、最初はドラマの第1話目だから気合い入れて長くしてるのかな、と思っていただけに、果たして100分でデスノートをまとめることが出来るのか、やや不安を感じながら見始めました。
まずだいたいの説明とネタバレ無しの感想を先に書きます。
アメリカが舞台ということで、設定は当然変わっています。しかしまったくのオリジナルではなく、かなり原作を踏襲しています。基本的な設定はそのままに、ストーリーラインを2時間にまとまるように大胆に編集している感じ。
デスノートがごく普通の高校生の手に渡るっていうところは同じ、デスノートの設定とか、細かいルールが色々あるところも同じ。主人公の父親が警察に務めていたり、Lやその秘書のワタリが出てくるところとか、大まかなところはあってる。ただ、ヒロイン役のミアはメジャーなアイドルではなく、主人公の通う高校のチアリーダー部の生徒。
主人公の名前はライト、ヒロインはミサじゃないけどミア、死神はリューク。LはL、ワタリはワタリ。主人公が名乗るのはキラという名前。名前はわりと原作に忠実。
で、主人公ライトの元にデスノートが落ちてきて、ライトはそれを使って世の中から犯罪者を一掃しようとする。ライトはキラと呼ばれ、一部の人々からは救世主扱いされる。しかしキラをとらえようとする謎の探偵Lが現われ、二人の攻防が始まる。
という大まかなストーリーも一致。しかし、序盤こそ原作のノリを保っているものの、だんだん違和感を覚える展開になっていきます。
見終わった後で製作陣のコメントを見たのですが、「正義とは何か」というのがコンセプトだったそうです。
確かにそれは原作でも、この映画版でも表現されていたと思います。一部の人々には神と崇められ、しかしLを含め別の人々には犯罪者と見なされるライトの行動は正義なのか。この解決不能の倫理問題がこの物語の魅力の一つであることには間違いありません。
しかし、もう一つの、というよりデスノートのメインの楽しみは、ライトvsエルの、武力によらない策略中心の互いの裏をかきあう攻防にあると思います。
「ジョジョの奇妙な冒険」とかもそうだったと思いますが、毎回最後に無理難題が押しつけられて、次回それをなんとかかいくぐるという連載漫画の醍醐味を味あわせてくれるのがデスノートでした。
で、このネットフリックス版でそれが表現されていたかというと、残念ながら原作にあった心理的な駆け引きや知的な攻防という点ではかなり物足りない感じがしました。
結論から言うと、まあ何も知らない人が見る分にはそこそこ面白い映画だと思います。しかしこれだけヒットした原作、そして原作にわりと忠実で良くできた映画版の後に出す物としては、すごく中途半端と言わざるを得ません。これ見るなら原作読んだ方がいいよ、あるいは日本の映画版見た方がいいよ、と言われると思います。
あと、Lのキャラ変更も、改悪ではないでしょうか。ネットフリックス版ではわざとLのキャラを変更しています。しかしLはあのよく分からないキャラが受けてけっこう人気だったと思うので(日本ではスピンオフ映画も作られたくらい)、この変更の意味が分かりません。
ちなみに日本の映画版はFBIの捜査官の下りが完全におかしいので、あれがなければもっとましだったと思います。だいたい、CIAならまだ分かるけどなぜFBIなんだろうか。
以下は多少ネタバレ有りの感想。
主人公ライト役はナット・ウルフ。まだ若手だけど悪くない。普段はぬぼーとしてそうな風貌だけど、時折見せる邪悪な笑みがライトによく似合っている。
ミア役はマーガレット・クアリーという人で、この人も見たことないけど悪くない。ゴス系のキャラで、原作のキャピキャピしてライトを信奉するアイドルとは変えてある。
この変更もそうだけど、全体的にお話がこじんまりしている。ライトのお父さんも、警察勤めという点では同じだけど、警察のお偉いさんではなくてせいぜい刑事くらいな感じだし。
そして100分に収めるためか、ちょっと雑である。
まず、ライトがキラであると見抜かれるのがすごく早い。ライトのお父さんがキラ対策本部の長となり、テレビでキラを批判する記者会見をする。でも、死なない。よって、本部長の身内であるライトがキラである。
ちょっと短絡的すぎる気もするけど、こういう理由でLはライトをキラ認定する。原作ではライト=キラを突き止めるまでの攻防が面白いんだけど、尺の関係なのかそれをあっさり放棄してしまった。
映画の最大の欠点は、後半の駆け足すぎる展開にあると思う。
ライトの最初の犯行?の時点で、ノートに死因まで書かせてたりして、ルールの説明をなるべく早くしようというのはわかる。しかし、その後の展開が急すぎて、Lに追求されていこう、ノートを使った攻防というのがほとんどない。結局最後の最後で実はこんなこと書いてました~って明かされるだけ。
もう少し詳しく、丁寧に、ノートの仕組みや追加ルールを紹介しないと、下手すると漫然と見ていた視聴者はついて行けないかもしれない。
同じく発生する問題が、ライトの性格のよくわからなさ。父親の殺害を拒否し、FBI捜査官の殺害も拒否していたライトがなぜあっさりとミアを片付け、あのような決心に至ったのか。ワタリが死んだ時点でミアを消そうと決めていたのかもしれないし、FBIを消したのがミアと分かった時点でそうするつもりだったのかもしれない。ライト君の表情なんかはよく表現出来てたと思うんだけど、あの辺の展開が全体的に急すぎて、人の心理描写をじっくり考える時間はなかった。
要するにライトのカーチェイスとかLとライトの追いかけっこのシーン、まるまる別のことにつかったほうが良かったのではないかと思う。観覧車でのラストシーンにつなげるための、物語をもりあげるための重要なシークエンスだったのかもしれないけど、そもそも盛り上げるためにアクションシーンをいれる、という発想の時点でデスノートの魅力がどこにあるか、分かっていたのか疑問だ。
同じことはLの性格の変更にも言える。Lは異常に冷静沈着で頭が切れ、めったに感情を表に出さない奇人変人の部類だった。それが一般に受入れられないと思ったのか、それともあえてまったく別のLを演出しようと思ったのか。
ネットフリックス映画版のLはワタリが行方不明になったことで取り乱し、部下に感情的な口調で指示を出し、自ら銃を振り回してライトを追いかける。
そりゃ、こういう天才探偵だっているだろうけど、デスノートの視聴者が期待しているのはこういうLなんだろうか、と言われるとはなはだ疑問だ。そしてこれが原作のLを超えないまでも、別種の魅力をもっているかというと、とくに持ってない。単に持ち味の冷静さが奪われただけ。
じゃ、Lから冷静さを奪ったライトの悪魔ぶりが際だつのかと言えば、こうなったのは成り行きなのでライトはそんなこと計算してたわけでもない。
そして最後に、種明かしをするようにライトがデスノートにミアがこれこれこうやって死ぬように書いておいたんだと説明するけど、確かに作中でライトは頭がいい、という台詞はあるけど、そこまでデスノートの使い方に習熟していたような様子はないし、いきなりあの緊迫した場面でそこまで書くなんて、ちょっと不自然に思う。原作のように、最初からライトも天才という設定だったならまだわかるけど。そもそも、ラストでいきなりデスノートのちょっとアクロバティックな使い道を説明されても、よく意味が分からなかった人もいると思う。
全体的に、とても残念だということだ。
正義とは何かというコンセプト、それはうまく伝えられたかもしれない。でも、コンセプトより大切なのは面白さであって、この映画は原作の面白さを少し忘れてしまっている。
まあ、擁護すると、日本の映画版は2部作になっていたくらいだから、最初から原作のややこしい攻防を100分で再現するのは無理、という判断のもとに、あえて要点を絞って作ったのかもしれない。そう思えば、分かりづらい部分はあるものの、全体のトーンやペース配分は悪くないし、100分という短さもあいまってちょっとした暇つぶしには楽しめる。
でも、それなら原作よんだほうが面白いよ、ということになってしまうんだけど。
あ、リューク役を演じるのはウィレム・デフォーです。癖のある役者ですね。あのメイクなので全然わからないのですが、英語だと声でわかるんでしょうか。ちなみに日本語版だとリュークの声は日本版のアニメ、映画と同じく中村獅童がやっています。日米の文化的差異を考えて、おお、ウィレム・デフォーか、という感覚と、おお、中村獅童か、という感覚はだいたい等価で交換されるのでしょうか。