貴志祐介原作、三池崇史監督「悪の教典」の感想。良くできてはいるが、原作の一つのキモである蓮実の人物造型は薄くなった。

高校の先生が担任のクラス生徒を皆殺し?という貴志祐介の問題作、「悪の教典」。

原作の映画化という観点からから言うと、画竜点睛を欠く出来映えと言わざるを得ない。単純にスプラッターホラーとしてみるなら、良くできている。

ストーリー進行はよく考えられて作られていて、長いけれど飽きさせない。担任の先生がサイコパスであるというホラー小説だけれど、学園ものでもあり、高校のテストや修学旅行や文化祭といった学校ならではのイベントが色々出てくる。生徒の側、先生の側からみた学校生活全般も描かれていて面白い。

原作は「青の炎」の変奏、といった印象が強かった。「青の炎」はかなり頭のいい高校生が完全犯罪を計画するという話だった。

「悪の教典」では、かなり頭のいい高校教師が完全犯罪を計画する。ただし、この蓮実聖司先生はただ頭がいいだけでなく、他者への共感能力が欠如しているという点がみそ。

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原作では主人公のサイコパスっぷりがよく考えられていた。

たとえば人付き合いに関しては、こういう状況ならこう受け答えすればこういう印象をあたえる、ということを理知的に計算し、計算尽くで立ち回る。他人の喜怒哀楽を感じることができないので、相手が笑ったり泣いたりしているときにはその理由と、自分はどうすればいいのかを考え、すべて演技で対応する。

それだけなら、ある種の障碍者であり、なんらかの治療を受けて社会への適応を目指すことになる。しかし蓮実聖司はその根底に殺人嗜好がある、快楽殺人者として設定されている。他人の痛みも感じることができないので、人を傷つけることにもまったく抵抗がない。

それなのに、頭がいいので多くの場面でむしろ一般人以上にうまく振る舞うことができ、周りからは非常に好かれ、評判のいい先生で通っている。

サイコパスの精神構造というテーマは角川ホラー大賞を受賞した「黒い家」でも丹念に描かれていて、この著者が強く興味を引かれている分野なんだと思う。わたしもとても興味があるので、それが貴志祐介の小説をなんとなく全部読んでしまっている理由の一つだと思う。

「悪の教典」では、主人公である蓮実先生のサイコパスっぷりが、その生い立ちから犯罪を犯すときの心理までしっかり書かれている。さらにはサイコパスが人間性を取り戻しそうになる心の綾を描いたエピソードまで用意してあって、「黒い家」以上に楽しめる。

タイプの違いから「黒い家」の悪役のほうが不気味に感じるところはあるけれど、蓮実先生はより狂っていて、冷静沈着に道を舗装して、じゃまな障害物を取り除いて、全速力で破滅への道を駆け抜けていく感じ。自分が破滅に向かっていることが分かっていない。

というわけでとにかく蓮実先生が校舎でショットガンを撃ったり、生徒皆殺し!?みたいな派手な部分に目が行きがちな「悪の教典」ですが、丁寧に描かれた蓮実聖司というサイコパスの人となりをうわぁ・・・と引きながら楽しむ小説だと思いました。

それでは、映画版の出来映えはどうか。

映画版は、原作の激しさは表現できているけれど、サイコパスの表現が間違っている。

監督の三池崇史は、個人的にはなんでこんなに評価されているのかよくわからない、やっつけ仕事の多い職人監督だと思っているが、面白い映画も撮っている。

そして、この「悪の教典」は当たりのほうだろう。

ただし、蓮実聖司の共感能力を欠いたサイコパスという要素はなくなり、ただの殺人鬼になっている。個人的にはこの点が極めて残念、画竜点睛を欠く出来映えと言わざるを得ない。

しかしこのサイコパス云々を無視すれば、エピソードの取捨選択もよく多数いる人物も手際よく紹介しており、映画の肝となる、おいつめられた蓮実の凶行も容赦なく描写しており、おそらくは恐いもの見たさで見る多くの人の期待には応えてくれる。

バイオレンスに強い三池監督になったのは適任で、唖然とするような殺戮描写を臆せず描いている。ただ、そうなるとこの映画は、高校の先生が生徒を皆殺しにするのが売りのスプラッター映画になってしまうんだけど。同じ回をみた人が「これは子供には見せられない・・・」とつぶやいていたので、スプラッター映画としては大成功なのではないか。

だからこそ、蓮実聖司の特徴である、共感能力の欠如したサイコパスぶりというのをしっかり見せて欲しかったと思う。

映画の後半、蓮実の使うショットガンに目と口がついて蓮実に語りかける場面があるが、これは原作の蓮実らしさをぶちこわしてしまっているのではないか。いつでもどこでも、どこまでも理性的に行動するのが蓮実ならではの特徴だったのに、幻覚をみてそれにそそのかされるようではそこらの薬中のキチガイと一緒になってしまうではないか。

それから蓮実が自宅でパソコンを使って生徒を管理する場面も力を入れて描写して欲しかった。蓮実はパソコンで生徒同士の相関図みたいなのを作っていて、それを利用して生徒を管理しているんだけれど、それが生徒をゲームの駒みたいに操っているようで、いかにも蓮実らしい場面だなぁと思える。その辺、映画ではちょっとでてこなかったのでは。蓮実の巧みな学内トラブル処理の裏にあるこういう計算高さをもっと描写すれば、よりサイコパスらしさが出たと思います。

でも映画のラストシーンで、蓮実の蓮実らしい恐ろしさは表現されていたのでまあいいか。

あと見ていたときに思ったことをメモ。

結構長い原作をうまく2時間ちょっとにまとめていて、エピソードの取捨選択は良かったと思う。修学旅行がなくなったのは残念だけど、長そうだから仕方がない。

試験の場面から始まって、カンニング対策会議で蓮実の有能ぶりを描写し、一部の主要な生徒の関係図もさらっと描いている。この辺の無駄のなさはいい感じ。

登場人物も概ねうまくキャラができている。蓮実のうさんくささに最初に気付く、釣井先生役の吹越満の気色悪い演技とか、モンスターペアレントの滝藤賢一とか、わかりやすくていい。

しかしヒロイン役の二階堂ふみ、なんであんな暗い、訳分からん演技なんだろう。原作では人に対する思いやりのあるごく普通のいい子で、人の気持ちがわかる洞察力を備えていた(だから蓮実の異常性に気づく)。二階堂ふみはちょっとくせのある根暗っぽい生徒を演じていたが、なんでそういう設定にしたんだろう。

体育教師の柴山。この人は原作では下種なセクハラ教師で、同じ体育教師である園田先生とともにわりと存在感のある役だった。映画では園田先生はカットされ、柴山もかなり人物が変更されている。演じるのは山田孝之。この人の最後のシーンはどういう意味があったんだろう。原作にあるたわいもないギャグ要素を、あそこで一手に引き受けたんだろうか。

蓮実にもてあそばれる美少女、美禰も原作とずいぶんかわっている。もっときつい、不良タイプで、蓮実に対してだけ甘い、というキャラだったと思うんだが(これも「青の炎」のヒロインを彷彿とさせるが)、最初からなんかフ抜けた子になっていた。

蓮実のアメリカ時代は映像で見せる意味がよくわからないし、あそこだけ演出も浮いてたので全部カットしても良かったと思う。

ラスト、二階堂ふみの目が白くなるCG、浮いてておかしいしやめてほしい。ムニン、フギンと呼ばれるカラスの片割れに重ねたんだろうけど・・・蓮実は幻覚をみるようなタイプの殺人者じゃないのでは。と何度でもいいます。