村上春樹とノーベル賞。たぶん、取れないと思う。

村上春樹の新作がでました。「騎士団長殺し」。また馬鹿売れするのでしょうか。そして村上春樹といえば必ず話題に上るのがノーベル賞ですが、はたして受賞できるのか。

今のところ出来ないし、村上春樹自身も受賞するとは思っていないし、毎年騒がれるのを内心迷惑に思っているに違いない。そもそもノーベル賞に文学を評価する力、価値はなく、村上春樹ほどの人はそのこともよくわかっているはずだから、毎年村上春樹ゆかりのカフェ?みたいなところに集まって一喜一憂するファンにたいしてはまったく見当外れなところを見ていると感じて呆れているにちがいない。

簡単に言うと、最近のノーベル賞受賞に必要なのは政治的、道徳的な意思表明である。そして村上春樹の小説にはそうした要素がない。よって、村上春樹の小説はノーベル賞を受賞できない。

しかし、これは村上春樹の小説の価値を少しも減じる物ではない。そもそもそんなところを目指してはいないのだから。村上春樹の小説が無意味だとか、空疎だという評価は時々聞く気がする。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」のamazonの人気のあるレビューをながく引用すると、

 いろんなところに目をつぶってみても開始何ページ目かでボクはあまりのオシャンティーぶりに卒倒しそうになりかけました・・・・。嫉妬とはーーー世界で最も絶望的な牢獄だったーーーとか、人の心は夜の鳥なのだーーとか、彼は荒ぶれた闇の中で消え入るように息を引き取り、森の小さく開けた場所に埋められた。人々がまだ深い眠りについている夜明け前の時刻に、こっそり密やかに。墓標もなくーーとかいちいち目を覆いたくなるような、ゴミ箱からほのかに漂ってくるようなスペルマ臭い言い回しとも必死で戦いました。

・・・中略・・・

 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」

 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」

 福山雅治なら許されます。ガリレオのときの雅治なら許されます。しかし、それ意外は、断じて許されません。無論。こういうことを言って、「おめーいてーよなんだよそれ。鋭いサーブだってなんだよw」「なにが多崎つくるくんにアドヴァンテージだよw」なんていう人間はひとりもおりません。自然なのです。「封を切ってしまった賞品の交換はできない」とか「まるで航海している船の甲板から、突然ひとりで夜の海に放り出されたみたいな気分だ」とか村上小説の登場人物は総じて、もういちいちなにかしゃべるときは、気の利いたこと、おしゃれな比喩を言わないとすまない性格だと肝に銘じたほうがよさそうです。

・・・中略・・・

まさに生きづらさを感じている者の代表として言わせてもらいますとボクは読んでるあいだ、終始、「多崎つくると俺は違うからなー」と思っておりました。だってあれだぜ。ラストで恋人からの電話を待ってる時にオリーブグリーンのバスローズきてカティーサークのグラス傾けながらウィスキーの香りを味わってんだぜ? オリーブグリーンってクソ緑だぜ? 趣味悪くね? そんで「孤独だ・・・・」とかつぶやいてんだぜ? 石田純一なの? 孤独ってこんなオシャレだっけ? こんなやつに感情移入なんかできませんわな・・・。しかもこの小説の着地点も、シロというミューズを失った主人公が沙羅という新しいミューズと出会うという、「けっきょく恋愛だよねー」としか言い様がないイラッとくる結論だし。なぜイラッとくるかといえば、「それができない人はどうするの?」と読んでいて頭に疑問符が湧いたからであります。これを救済とか、救いととるなら、こんな残酷な救いはありませんな。沙羅という見ただけでズキューンとなる女に物にしないと自信を取り戻せないなんて・・・。そんな女に出会えないのが大多数の人生なのに・・・。なんでこれをよしとしているんだろうって思ってアマゾンのレビュー読んでたら、ひとりぼっちな男が救済されて元気出すにはやはり沙羅のようないたれりつくせりな女性に手伝ってもらわないと、、というかこんな女性に救済されたいなぁ、、とくたびれ果てた男どもが勝手に妄想するのが沙羅なんです。って書いてあって、あぁなるほどと納得いたしました。これはつまり、孤独なサラリーマンの妄想小説なのですな・・・。いやー・・・そんなイカ臭い妄想には付き合っていられません・・・。

このレビューはだいたい正確に小説の内容を描写しているとおもう。しかし、アカの言動が福山雅治になら許されると思うのなら、それは福山雅治なのである。自分が女にもてないから女にもてる主人公を理解できないというのは理屈に合わない。最初から三枚目の出番は用意されていない美男美女ばかりのシリアスなドラマというのもあるはずで、このレビュアーの問題は小説の全てを自分の身に当てはめようとし、その際の違和感を欠点と断じている点だろう。ありふれた言葉でいうと想像力がないともいえる。この小説が「孤独なサラリーマンの妄想小説」というのはあまりに一部のみに注目した、他を無視した判断だと思う。しかし、このレビューでも指摘されているように村上春樹のスカした文体が性に合わないという人が大勢いることは確かで、また小説自体にとりたてて意味がないと感じることも事実だと思う。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでも思ったけれど、村上春樹の小説のは本質的には感傷小説だろう。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「本編」は「僕」が主人公の「世界の終わり」のパートに違いなく、そこには感傷が満ちている。そして文章は上手く、読めばその世界、感傷に浸ることができる。もちろんこういう趣味のないひとも世の中には大勢いるはずで、そうした人たちにはつまらない小説に思えるだろう。どちらにしても、ノーベル賞がどうとかいう話ではないと思う。ノーベル賞とか騒がれている理由の一つは、例えば「世界の終わり~」の「私」のパートにあるようないろんなギミックの、無意味な深読みにあるのではと思う。

そもそもノーベル賞自体にそれほどの価値があるのかどうか。個人的には芥川賞より少しまし程度だろう。賞金額的に。芥川賞は新潮社がやっている商業的な賞で、ノーベル賞は世界的な財団がやっている広報的な賞だろう。世界の言語で書かれた小説を、その書かれた言葉を読めない者が評価することが土台無理なのであって、そうした賞はそもそもなにかのお飾り程度に考えるのが当たり前だと思う。お飾りだから悪いわけではなく、受賞=だれにとっても価値のある作品というわけではないという、あたりまえのこと。

村上春樹の小説を読むのは、音楽を聴いてセツナイ気持ちになるのに似ている。あと文章が上手いと思う。

意味がないとか、内容がないということで否定する人がいるけれど、それで価値を否定することはできない。ある人にとって最高の小説は、他の人にとっては無意味なものでありうる。

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