ポール・オースター「トゥルー・ストーリーズ」の感想。ジャージー・コジンスキーがでてきてびっくり。

面白くなるように脚色しているから面白いのか、それとも当たり前の出来事でもさも面白い話のように語る口調が面白いのか。

内田百閒の文章は、ただ電車に乗った、というようなことを書いてるだけなのに面白い。これは8割位は文章の力で、些細な出来事、当たり前の行動をことさら針小棒大に書いてみせたり、あるいはいきなりスッと落としてみせることで文章になんとも言えない笑いがうまれる。もちろん、文章になるには発端となる何かしらの出来事が必要なのだけど、そのうち独特の文体が出てくると出来事の重要性は低くなってきて、どこそこの店で何を食べたとかいうだけのエッセイでも百間らしい味があって面白く読める。

それが進むと、思索だけでも十分に面白い文章になってくるのだけど、たとえば吉田健一の文章はときどき酒や文学といったエッセイの題材を超えて題材から離れた部分で面白く感じるところがある。

文章=視点といってもいいかもしれない。

ポール・オースターの「トゥルー・ストーリーズ」はそれらに比べると遥かに物語性が豊かに感じる。全部実話とは思えないほど面白い。

そう感じるのは、やはりオースターの文章が優れているからに違いない。というのは、よくよく考えてみると、ここで描かれる出来事はどれも日常的に、だれもが体験しうるような出来事ばかりだからで、とんでもない大騒動や奇跡のような話だけで構成されているわけではないから。だからこそ、だれでも共感しうる部分があって、その情景を的確に描写するオースターの文章が冴えているからこそ、この実話だけで構成された本がまるで小説のように面白く感じるのだと思う。

実話だけでこんなに面白いんじゃ、虚構の物語を作る必要がなくなるのではないか。現に、オースターの編集した「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は短い実話ばかり集めた本で、無類に面白い。しかも、著者はオースターではなく、小説家でもない一般市民である。

小説がいらないのかというとそうではなく、「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は実生活の中の一コマを切り抜いた写真集のような短編集で、それぞれが感情を揺さぶるものの、それは純然たるフィクションの持つ魅力とはまた違ったものだと思う。確かに、収録されているお話の中には稀な偶然によって生まれたまるで嘘みたいな瞬間が活写されている。ある意味小説的といってもいい。それでも、あくまでも現実が一瞬小説になりかけた場面と、最初からなんでもありのフィクションとではそもそも土俵が違う。

ただ、オースターに関して言えば「トゥルー・ストーリーズ」や「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」が彼の小説の大切な要素を切り出したものだとは言えると思う。

オースターの作品には偶然や暗合のようなものがたくさん出てきて、計算されているのかデタラメなのかわからないような展開が多い。それは、オースターが描きたいものが、まさに現実とフィクションとの、リアリティと嘘くささとの境目あたりにあるからではないか。

「トゥルー・ストーリーズ」はそういう場面ばかりだけど、平坦な現実の中からそうした瞬間を掬いとるのはやはり小説家ならではの視点があってこそだと思う。

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コジンスキーについて

個人的にもっとも驚いたのはコジンスキーのくだり。個人的に気になる作家だったので、突然オースターとの接点がでてきてびっくりした。

イェールジ・コジンスキー(ジャージー・コジンスキー)はポーランド人の作家で、アメリカに渡り英語で執筆した本で話題になった。「異端の鳥」「異境」「予言者」どれも面白く、「予言者」はピーター・セラーズ主演で映画にもなっている。小説以外でも大学教員になったりなかなか活躍していた人だけど、その後盗作騒動が起きて話題になった。

半自伝的小説とされた「異端の鳥」が実はまったくのフィクションであり、盗作の疑いもある。さらに他の小説も含め、コジンスキー自身が書いているのではなく複数のゴーストライターが書いているのではないか。

この批判がどこまで正しいのかはわからないが、「トゥルー・ストーリーズ」ではオースターがバイトでコジンスキーの原稿(1975年の小説、「コクピット」)の手直しをしたエピソードが語られる。

そこを読む限り、匿名作家集団が書いたというわけではないが、原稿を何人かの人で手直ししていたのは事実のようだ。コジンスキーはポーランド人で、英語は母語ではないので校正が必要なのは当然だとして、それがどの程度の手直しなのかは「トゥルー・ストーリーズ」を読むだけではわからない。口述筆記に近いことが行われていたのかもしれない。

オースターはすでに数人が手直しした後の原稿を推敲したということだけど、原稿には確かに問題があり、それは言葉の問題以前の、もっと根本的な、作品の根幹自体にあったということだ。それがどういうことなのかは、「コクピット」を読んでいないのでわからない。

コジンスキー自身の描写も興味深い。病的な嘘つきのようにも思えるし、何かの病気のようにも思える。オースターの作業を邪魔するようにひっきりなしに話しかけてくるその話の内容が、まさにオースターが推敲している小説にでてくる話ばかりで、しかもコジンスキーはそれを小説ではなく、自分が体験した現実の出来事として語ったという。

コジンスキーについて盗作やゴーストライターの批判が出てくるのはオースターが彼と接触したあとになるが、オースターはそうした批判がでても驚かなかったという。つまり「コクピット」もそうした方法で創作された可能性があるということだと思う。

コジンスキーは作家集団の隠れ蓑だったのか

風間賢二の「快楽読書倶楽部」というエッセイ集でもコジンスキーが取り上げられていて、そこではコジンスキーとは単なるペンネームに過ぎないといっている。「”コジンスキー”なる人物は”作家集団”の単なるスポークスマンで、実作のほうは、様々な無名作家たちがもちまわりで手がけていたのだった」と。

これはこれで、かなり誤解を招くんじゃないかと思う。まず、コジンスキー自身は現実に存在した人物だし、単なるスポークスマン以上に深く作品に関わっている。「予言者」という小説も、ただの庭師がまわりの勝手な勘違いでどんどん持ち上げられて偉くなっていく話で、オースターのエピソードと合わせて考えるとコジンスキーの小説にはやはりコジンスキーならではの要素が含まれているように思える。

風間賢二氏の書き方だと、まるでコジンスキー自身は小説とはまったく無関係のように感じられてしまのだけど、そうじゃないのでは。

ニューヨーカーとかに詳しい記事があるみたいなので、こんど読んでみたい。

まとめ

脱線してコジンスキーの話になってしまいましたが、そこも含めて面白い。面白い本です。